こんにちは、ゆる登山家です。
今回は、養老孟司氏の名著『バカの壁』を紹介したいと思います。
初めてこの本のタイトルを見たときは、「随分、煽ったタイトルだなあ」と思って、平和主義な私はあまり興味を持っていませんでした。
しばらく時間が経っても、人気の書籍として本屋で紹介されているので「食わず嫌いをするのもな」と手に取ってみました。
養老孟司氏は東大医学部を卒業されており、解剖学が専門の東大名誉教授です。
youtubeでも講演の様子を観ることができるのですが、話が上手で聞いていて面白く、「なるほど」と自分になかった考え方を学べます。
そんな養老氏が書いた本書は、「誰かをバカにする」ような内容ではなく、「結局、われわれは自分の脳に入る事しかわからない」ということを「バカの壁」という表現で伝えたいという趣旨だそうです。
解剖学者の著者ですので、医学的な内容も少し出てきますが、私が「なるほど、そんな考え方をすると人生が少し気楽かも」と思った点を紹介します。
ほんとに話せば分かる?
「話せば分かる」という表現は昔からありますね。「どんな人とも話せば、お互いに理解が進んでコミュケーションがうまくいく」というような意味で使われていますが、養老氏はこれは大嘘だと初っぱなから大胆に主張しています。
養老氏がある薬学部の男女生徒に出産に関するドキュメンタリーを観させたときの、状況を例にしています。ドキュメンタリーを観たあとの感想は男女で全く違っており、女性は「大変興味深かった」という感想を持ちましたが、男性は「保健の授業で知っている内容だった」と興味を示さなかったとのこと。
この違いには「知りたくないことには自主的に情報を遮断しているという、一種のバカの壁がある」と養老氏は説明しています。
こういう事が現実には頻繁にあるのに、「話せばわかる」なんて大嘘だということですね。
確かに、「もうこんなことは知っている」と決めつけて人の話をあまり聞かない人は結構いますね。そういった人が良いか悪いかは別として、そういう人とわかり合うのは困難というか、ものすごい労力がかかる気がします。
養老氏は「知っている」と「わかっている」は全く別物であり、簡単に「わかっている」というのは危ういと主張します。
知識として「知っていて」も本質や詳細は簡単に「わかる」ものではないということです。
こういった話のすれ違いという状況はなぜ起こるのか?
この点についての養老氏の説明が、非常に面白かったです。
脳の中の出入力が違う?
話しても分からないという状況を説明するために、養老氏は脳内の1次方程式を用いています。
入力をx、出力をyとすると、y=axという形式で示されるという事だそうです。
このときのaは「現実の重み」と表現されています。
この表現からは、人がコミュニケーションをとる場合に、何かを入力されるとaという係数(重み)が掛けられて出力(答え)が出てくるということになりますね。
つまり、養老氏によると「興味のない事」はaが0(または0に近い数値)なるので、どんなに入力しても、出力がほとんどない(感想がない)ということになるそうです。
面白い表現ですよね。
実際には人の脳はもっと複雑なんでしょうが、会話や認識が噛み合わない状況を理解しようとすると、この表現は私はすごく納得してしまいました。
この認識を持っていると、会話にズレを感じたときに「なんでこの人は分からないんだろう?」というよりも「係数が違うから合わないんだな、少し係数を寄せられないか考えよう」と考えて、前向きになれる気がします。(私も変わってるかな?)
養老氏はこの考え方で、宗教間の争いや環境の適応性も説明できるのだとか。
バカの壁を意識して考えること
紹介した2つは、本書の序盤に説明された内容ですが、この「1つ目のバカの壁」を元に教育や科学・スポーツ・美術を題材にしながら「色々な壁」について説明されています。
養老氏が主張したいことの根幹には「思考停止にならない」ということがあると思います。
「思考停止にならない」というのは、使い古された表現のような気がしますが、養老氏が警鐘を鳴らしたように「わかった」つもりで行動している内に、現実を知らない、偏った思考だけになって無意味な行動を繰り返してしまうことだけは避けたいところです。
本書は、現代社会に対する哲学的な側面もあり、読んでいて非常に考えさせられます。
色々な分野についてもふと考えて、日常での「バカの壁」についての気づきを得られる良書と思いますので、興味のあるかたは是非手に取ってもらいたいと思います。
考える力を考える!
ではでは。
コメント